《前回からのつづき》
EF64形は寒冷地での運用を想定した装備も充実していました。勾配を多く抱える路線は、そのほとんどが冬季には雪が降り積もったり、気温が低くなる山岳地帯です。特に最初に配置することを計画していた板谷峠は、日本でも有数の豪雪地帯の一つです。雪をかき分けるスノープロウはもちろん、砂撒き管には凍結防止用のヒーターを、前面窓には氷柱切り用の庇、そしてガラス窓を保護するための防護柵を取り付けるためのボルトも準備されていました。そのため、初期の車両は「ごつい」印象を受けますが、EF64形だけでなく、更にその後継となるEF71形やED78形にも受け継がれました。

勝沼ぶどう郷駅前にはEF64形0番台で唯一、完全な姿で18号機が保存されている。1966年に東芝で製造されたあと、甲府機関区に新製配置された。そのため、板谷峠を受け持つ福島機関区への配置はなかったが、ここに新製配置された第1次車である3~12号機とほぼ同じ仕様で製作されたため、前面窓にはトンネルの坑口に着いた氷柱などから窓ガラスを保護するための保護棒を取り付けるためのボルトが設置されているなど、初期形の特徴を遺していた。実際、福島に配置されたEF64形は、冬季になると保護棒を前面窓に取り付け、無骨さを増していたという。(EF64 18〔塩〕 勝沼ぶどう郷駅前 2016年12月4日 筆者撮影)
こうして、板谷峠をはじめ、全国の勾配線区で運用できる装備をもったEF64形は、1964年から製造されると福島機関区に配置され、それまで板谷峠越えを担ってきたEF16形と交代するようになります。そして、板谷峠を通過するすべての列車の補機として連結され、気動車特急だった特急「つばさ」や「やまばと」の前補機としても活躍し、関東・東北南部から奥羽本線沿線の輸送を支えたのです。
しかし、EF64形の板谷峠での活躍は長くは続きませんでした。
国鉄は動力近代化計画の一環として、全国の幹線を電化することを進めていましたが、輸送量が小さく列車の運転本数が少ない地方幹線は、従来の直流電化ではイニシャルコスト、ランニングコストともに高くなる弱点を抱えているため、相対的に不利になることが問題になっていました。
そこで、輸送密度の低い路線では、交流による電化を推進する方針を固め、1955年から仙山線で試験を続けた結果、実用化の目処がついたことから1957年に仙山線仙台駅ー作並駅間で交流電化による営業運転をはじめました。そして、国鉄は常磐線藤代以北と、東北本線黒磯以北の東北地方各線と、北海道、九州島内などは交流20000Vでの電化とされ、1959年に黒磯駅ー白河駅間の交流電化完成を皮切りに徐々に北進していき、1960年には白河駅ー福島駅間の交流電化が完成、さらに1961年になると福島駅ー仙台駅間も交流電化されました。
こうして東北本線の交流電化が進められていく中で、奥羽本線も交流電化に変更することが決定しました。すでに福島駅ー羽前千歳駅間は直流電化されていましたが、福島駅で接続する東北本線がすでに交流電化されていることや、将来は青森駅を経て北側も交流電化されることから、既設区間の電化方式の変更が迫られたと考えられます。

勾配線区向けの直流機として設計されたEF64形は、連続した勾配を下るときにも速度を抑えるための抑速ブレーキとして、強力な発電ブレーキを装備していた。これを実現するためには大容量の抵抗器を欠かすことができないが、その一方で、長時間にわたって発電ブレーキを作動させていると、主抵抗器は熱を持ち、やがて赤熱して溶断、故障に至ってしまう。これを防ぐためには強力な冷却装置も装備させなければならず、EF64形には強力なブロワーを装備して主抵抗器を冷却していた。このブロワーが作動しているときには大音量をまき散らしていた。また、主抵抗器に冷却風を送り込むために、車外から冷えた空気を効率よく取り入れなければならなかったが、これを実現するためにEF64形は側面に大型のルーバー窓を6か所設けていた。この大型のルーバー窓もまた、EF64形が無骨で力強い印象を与える一つだといえる。(EF64 18〔塩〕 勝沼ぶどう郷駅前 2016年12月4日 筆者撮影)
もっとも、奥羽本線だけ直流電化で残すことも技術的には可能だったといえるでしょう。しかし、奥羽本線だけが直流電化で、それを取り囲むように他の線区が交流電化になった場合、電化方式の違いから電気的に孤立した状態に置かれてしまいます。それならば交直流機や交直流電車を配置すればその問題を解決できそうですが、国鉄の交直流機は1959年にED46形で試験が行われて実用化の目処が立ち、1962年からEF80形が量産されたものの、こちらは常磐線で運用することを前提としていたため、勾配が連続する東北本線での運用には不向きで、しかも33パーミルという急勾配の板谷峠越えは到底無理でした。
しかも交直流機は直流機、交流機単体と比べると高価であり、発展途上で性能的にも未完成な車両をわざわざ奥羽本線のためだけに配置するよりは、91kmほどの直流区間を交流に転換するほうが合理的だと考えられました。

ED70形を嚆矢とする交流電機の誕生は、国鉄の地方幹線を交流電化によって推進する大きな原動力の一つになった。東北本線も黒磯以北は列車密度が低いため、直流電化ではなく建設コストが安価な交流電化電化が進められることになり、先に直流電化されていた奥羽本線は交流区間の中に取り残された「孤島」のようになってしまう。そして、ED70形が東北本線に配置されて運用が始められると、奥羽本線もほかの線区に合わせる必要が高まっていった。(©Rsa, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
こうして、周囲が交流電化が進められたことで電気的な孤立状態になりつつある中、1968年に奥羽本線の直流区間が交流へ転換されました。そして、板谷峠の補機としてやってきたEF64形は僅か3年でその役目を追われ、福島機関区に配置されていた12両すべてが稲沢第二機関区へ配転となり、奥羽本線の直流機の歴史に幕を閉じたのでした。
《次回へつづく》
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